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「どうする家康」浪速のことは夢のまた夢…第39回放送「太閤、くたばる」振り返り:4ページ目
秀吉の最期
返々、秀より事、たのミ申候、五人のしゅたのミ申候
いさい五人の物ニ申わたし候、なこりおしく候、以上、
秀より事、なりたち候やうに、此かきつけ候
しゅとして、たのミ申候、なに事も此ほかにわ
おもひのこす事なく候、
かしく、
八月五日 秀吉
いへやす
ちくせん
てるもと
かけかつ
秀いへ
まいる※秀吉遺言状
【意訳】何度も繰り返すが、秀頼のことをお頼み申す。五人がた、お頼み申す。詳しいことは五人がたに申し渡した。名残惜しくてならない、以上。
秀頼がちゃんと生きていけるよう書き遺しておく。かたがたにお頼み申す。この他には何も思い残すことはない。かしこ。
慶長3年(1598年)8月5日
徳川家康殿、前田利家(筑前)殿、毛利輝元殿、上杉景勝殿、宇喜多秀家殿へ送ります。
いったい何回「たのミ」申すのか……この繰り返しに、秀吉の未練が伝わりますね。
どんな栄華も財産も、あの世へは持って行けません。また現世の一切につき、遺された者に託すよりありません。
自分が死んだら、まだ幼い秀頼がどんな目に遭うか分からない。かつて亡き主君・織田信長の遺児たちに自分がしてきたことを、悔いていたかも知れません。
今はひたすら懇願するよりありません。そんな哀れさがにじみ出ていました。
ちなみに江戸幕府の公式記録『徳川実紀』には、このように描かれています。
……豊臣太閤既に大漸に及び。 君と加賀亜相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比 内府と共に心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀頼が十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後は天下大小の事はみな 内府に譲れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返すゞゝゝ申されけれど。 君あながちに御辞退あれば。太閤さらば秀頼が成立までは。 君うしろみ有て機務を摂行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は 内府に頼み置つれば心やすし。秀頼輔導の事に至りては。偏に亜相が教諭を仰ぐところなりとあれば。利家も涙ながして拝謝し。太閤の前を退きし後に。 君利家に向はせられ。殿下は秀頼が事のみ御心にかゝると見えたり。我と御辺と遺命のむねいさゝ相違あるまじといふ誓状を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されしかば。太閤も世に嬉しげに思はれし様なりとぞ。(天元実記。)……
※『東照宮御実紀附録』巻八「秀吉遺命于家康利家」
秀吉は家康に秀頼の後見を頼み、利家に教育係を頼んでいます。
「やれやれ、もはや殿下は秀頼、秀頼ばかり。天下などどうでもよくなってしまったのか、困ったものじゃ。まぁせっかくだから、起請文でも書いてやれば少しは安心されるんじゃなかろうか」
かくして起請文を差し出した家康ですが、この時点で反故にする気満々だったのかは諸説あります。
第40回放送「天下人家康」
さて、一代の英雄が世を去った後、三成の考えていた合議制が始まるようです。
が、そんなものが上手く行かないのは昨年の大河ドラマで学習済み……いやいや、あれから三百年以上経ってますから、少しはねえ……ねぇ?
次回は偉大なるカリスマ亡き後、豊臣政権が音を立てながら崩壊していく様子が描かれることでしょう。
あれほど仲良しだった家康と三成にも亀裂が入り、それに乗じた茶々の暗躍が予想されます。
いよいよクライマックスへ近づいていく「どうする家康」、これからも目が離せませんね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 上田正昭ら監修『日本人名大事典』講談社、2001年12月
- 藤井讓治 編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年7月
- 村上計二郎『列伝偉人の結婚生活』日本書院、1925年1月
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