
足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【後編】
義満のさらなる介入と明との関係
【前編】では足利義満による「天皇無力化計画」の初期の動きについて説明しました。
足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【前編】
足利義満の登場源頼朝が鎌倉幕府を開き、武家政権が成立すると、政治や軍事の実権は幕府が握りました。結果、朝廷や天皇の権威は弱体化し、その傾向は室町時代に入ると著しくなります。その動きの中心と…
【後編】では皇位簒奪の具体的な展開と、その後の天皇の権威の復活について見ていきましょう。
武家政権が成立する前には、天皇の権限は政治・経済・軍事・外交・裁判など広範に及んでいました。
その中でも改元・祭祀・官位に関する権限は天皇固有とされてきました。
しかし【前編】で解説した通り、義満はこれらにも介入します。
彼は改元の際に「嘉慶」という年号を後円融上皇に追認させ、祭祀では天皇家の祈禱の導師を義満が選び、自身の祈禱を優先させました。
また官位の叙任権も、形式上は天皇が任命者だったものの、実質的には彼が握っています。
さらに、こうした義満の天皇をないがしろにする振るまいに、1383年(永徳3年/弘和3年)、後円融上皇は怒りのあまり錯乱。持仏堂に籠もって自害しようとするほど追い詰められました。
さらに1394年(応永元年)、義満は将軍職を子の義持に譲り、翌年には太政大臣を辞します。皇位を狙う義満にとって、これらの地位は邪魔なだけだったのです。
仕上げとして、彼は明に使節を派遣して「国王御教書」ともいうべき文書を発します。その目的は、自分が天皇になった際、その地位を保障する権威を得ることでした。
翌年、明からの返書には「日本国王源道義」と書かれ、狙い通りの結果となります。