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足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【後編】

足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【後編】:2ページ目

義満の死と天皇の権威の変化

しかし義満の野望は、彼の突然の死で終わりを迎えます。1408年(応永15年)、彼は危篤に陥ってわずか2日後に世を去りました。

その後、将軍職は義量・義教が継ぎますが、彼の時代に変化が訪れます。1438年(永享10年)、義教が朝廷に征伐の綸旨を要請したのです。

かつて後醍醐天皇は、天皇親政を復活するため綸旨万能主義を唱えました。しかし、応安・康暦年間(1368~81年)を最後に、こうした征伐の綸旨は発給されていませんでした。

明徳・応永の乱でも、義満は綸旨を要請せず自力で山名氏および大内氏を制圧しています。

ところが、先述の通り、義教が謀反を重ねる足利持氏を討つために朝廷に征伐の綸旨を要請したことで大きく状況が変わったのです。

これにより、義満が築いた幕府の権威は一挙に低下し、天皇の権威が上昇することになりました。

これ以降、幕府の綸旨発給要請が続き、天皇の政治的権威は大きく高まりました。この時期の権威向上は、後花園天皇の資質も大きく影響していたと思われます。

3ページ目 天皇の権威の復活と新たな視点

 

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