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幕末に起きた「戊辰戦争」の敗戦藩はどのように復興したのか?三島億二郎に学ぶ地域再生戦略【前編】

幕末に起きた「戊辰戦争」の敗戦藩はどのように復興したのか?三島億二郎に学ぶ地域再生戦略【前編】

戊辰戦争から明治維新へ──

激動の時代、日本各地で旧幕府側に属した藩が敗北を喫し、町は焼かれ、武士も民も生活の基盤を失いました。その後、そうした「敗戦藩」はどのように立ち直ったのでしょうか。

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新潟県長岡市にあたる旧長岡藩も、1868年の北越戊辰戦争で甚大な被害を受けた地域のひとつです。町の大半は灰燼に帰し、財政も人心も荒廃していました。

そんな長岡を立て直したのが、一人の藩士でした。彼の名は三島億二郎(みしまおくじろう)[1825–1892]

河井継之助や『米百俵』でおなじみの小林虎三郎と並ぶ「長岡の三傑」と称されながらも、知名度は今ひとつ──けれど、その功績は現在にまでつながる復興と地域づくりの原点そのものでした。

三島は長岡藩の下級武士の家に生まれ、藩校・崇徳館で学び、のちに佐久間象山の門下として江戸でも修業を積みました。河井・小林とは幼なじみで、共に学び、共に新時代を迎えた仲間です。

1868年、戊辰戦争が勃発すると、三島は当初、新政府軍への恭順を主張しました。しかし、河井継之助が講和に失敗した後は考えを改め、彼と共に長岡城の奪還作戦に参加するなど軍事面でも責務を果たしました。

2ページ目 長岡は焼け野原に。復興と再建が急務

 

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