ある人物の手腕で新政府軍を圧倒!幕末期の戊辰戦争のひとつ「北越戦争」で長岡藩が善戦できた理由
微妙な立場の長岡藩
幕末期の戊辰戦争と言えば、誰もが有名な会津戦争や五稜郭の戦いを思い浮かべるでしょう。
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しかしもうひとつ、それらの戦闘よりも前に、新政府軍が大いに苦しめられた戦闘がありました。越後国長岡藩と新政府軍が激突した北越戦争です。
この北越戦争については、司馬遼太郎が『峠』という小説でもテーマにしているので、知っている人も多いでしょう。
ではこの北越戦争、どのようなものだったのでしょうか。
もともと、幕末期の長岡藩は微妙な立場でした。会津藩のように新政府軍に対する恨みがあるわけでもなく、だからと言って東北諸藩と対立して新政府軍の味方をする気もない、という立ち位置だったのです。
しかしこの頃の日本はそうした中立の立場は許されず、藩と新政府軍との交渉が決裂したことをきっかけに、1868年5月2日に戦闘の火ぶたが切って落とされたのでした。
長岡藩の兵力は5千程度、新政府軍は約3万です。戦力差は歴然でした。しかし実際に戦闘が始まると、長岡藩は何度も相手を撃退し、結果として二か月以上も持ちこたえています。
長岡藩はなぜここまで善戦できたのでしょうか?