「恋愛心中」では終われない太宰治の最期…自死の決定打になった“最後の一押し”とは
太宰治の不倫模様
昭和25年6月13日、太宰治と山崎富栄が玉川上水で亡くなったという知らせは日本に大きな衝撃を与えました。
当時の太宰は人気作家でしたが、愛人に迫られて断り切れず、優柔不断が原因で心中したという説が広く語られました。
しかし、残された記録をたどると、この説明だけでは不十分であることが見えてきます。
戦後の太宰は『斜陽』の成功で一気に売れっ子となり、仕事量は急増しました。
ところが人気作家としてのストレスに耐えられず、酒・タバコ・薬を濫用し、持病の肺結核は悪化。喀血を繰り返すほどの状態に追い込まれていました。
彼が生き続けること自体が難しいと感じていた可能性は高く、心中の主導権が太宰側にあったと考えるのは自然なことでしょう。
富栄との関係も、単純な恋愛ではありません。
二人が出会ったのは1947年3月。太宰は「死ぬ気で恋愛してみないか」と告げ、関係が始まったといいます。
しかし太宰には正妻・美知子がいて、さらに『斜陽』の素材を得るために接近した太田静子という愛人もいました。
富栄の願いと太宰の拒絶
さて、富栄は静子の妊娠を知ると強いライバル心を抱き、「自分も太宰の子を産みたい」と願うようになります。
しかしこの年の6月24日の富栄の日記では、「一緒に死のう」と持ちかける太宰に、彼女が「もう少し頑張って」と返すやり取りが記録されています。
一方の太宰は正妻以外との子どもを望まず、「これ以上子ができたら首括りだ」と語っていました。
富栄が泣きながら抗議しても、太宰は軽くあしらったといいます。
それでも富栄は諦めておらず、心中の一か月前まで、日記に「どうしても子供を産みたい。欲しい。きっと産んでみせる。貴方と私の子供を」と、まるで太宰の小説のような文体で繰り返し書いていました。それだけ精神的な一体感が強かったのでしょう。
そして1948年6月、二人は赤い紐で身体を結んで玉川上水へ向かいました。富栄の願いは母になることであり、死を望む理由は見当たりません。
こうした状況を見ていくと、厭世的な気分になって死を望んでいたのは太宰の方だったと考えるのは自然なことでしょう。

