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伝説で彩られた「元寇」「蒙古襲来」の真相に迫る!神風伝説とフビライの真の意図について解説【前編】

伝説で彩られた「元寇」「蒙古襲来」の真相に迫る!神風伝説とフビライの真の意図について解説【前編】

激怒した鎌倉幕府

本稿では、元寇あるいは蒙古襲来の歴史的背景とその真相について、前編・後編に分けて説明します。

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1268年正月、九州の大宰府に高麗から潘阜という使者がやってきます。彼は高麗からの国書とともに、服属させられている元からの国書を差し出しました。

元からの国書は大宰府から幕府のある鎌倉へと送られます。その書き出しは「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」と始まっていました。

「上天眷命」とは「天命を受けた」という意味であり、「大蒙古国皇帝」、すなわちフビライを日本国王より上においた表現です。

国書は日本に国交と服属を求め、「兵を用うるに至りては、それたれか好む所ならん」と結んでいました。つまり、フビライは武力を使うようなことはしたくないといいます。

しかし、「言うことを聞かなければ痛い目にあわせるぞ」とも読める文章です。これを読んだ幕府の執権・北条政村は激怒し、国書を朝廷に届けました。

朝廷は連日協議した結果、「返書を送らない」と決めます。その後、フビライは2度目の使者を日本へ送りますが、幕府は先の国書の内容が無礼だといって元へ返してしまいます。

2ページ目 「神風」の真実

 

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