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『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜朝廷の権威を利用し天下人の地位を築く[後編]

『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜朝廷の権威を利用し天下人の地位を築く[後編]

豊臣秀吉の天下統一によって、日本の戦国時代はひとまず収束へと向かいました。

では、数多の武将がいる中で、なぜ秀吉が天下統一を果たせたのか。本稿ではその理由を2回に分けて紐解きます。

圧倒的な兵力と速力によって敵を圧倒した戦術面を考察した[前編]に続き、[後編]では秀吉が朝廷の権威を巧みに取り込み、いかにして天下人としての地位を築いていったのかを解説します。

※[前編]の記事はこちら↓

『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜本能寺後に光秀を圧倒した「兵力と速さ」の正体[前編]

一般に日本における戦国時代の始まりは、1467年(応仁元年)の応仁の乱とされます。一方、その終わりにはいくつかの説があります。たとえば、1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛…

「武家の棟梁」から「朝廷の中枢」へ

1582年(天正10年)、本能寺の変に倒れた主君織田信長の弔い合戦・山崎の戦いで、明智光秀を倒すと、豊臣秀吉はまるで堰を切ったように、天下人への道を駆け上がっていきます。それは、信長の後継者争いを一気に制した者だけが持ち得る勢いでした。

1583年(天正11年)には、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ケ岳の戦いから北の庄へ追い詰め滅ぼすと、翌年には小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と戦います。戦いはほぼ互角でしたが、家康・信雄ともに秀吉の圧倒的な兵力の前に、早期に和議を結ばざるを得ませんでした。

そして、この翌年の1585年(天正13年)、早くも秀吉は天下取りを狙うべき行動に出ます。それは、「関白」の座を狙うことでした。

ただ農民出身の秀吉が関白になるためには、関白になりうる家柄と縁を結ばなければなりません。そこで、五摂家の一つ近衛前久の猶子となり、「藤原」氏を称したのです。羽柴秀吉転じて、藤原秀吉の誕生でした。

少し余談になりますが、秀吉が木下から羽柴へ姓を変えたのは1573年(天正元年)、浅井長政を滅ぼした功で、近江長浜城主となった時です。

それからずっと羽柴でいたかというと、実はそうではなく1582年(天正10年)から約3年間は正式には「平」を名乗っていたことが知られています。つまり、本能寺の変で信長が没し、山崎の戦いで光秀を滅ぼした後は、源氏と並ぶ武家の頂点・平氏を名乗っていたのです。

これは、すでにこの頃から秀吉には武家の棟梁として、朝廷秩序の中で自らの地位を位置づけようとする計画があったことが伺えます。

そうした経緯を経て、秀吉は関白に任ぜられ、さらに翌年の1586年(天正14年)には太政大臣に就任、朝廷首班となり、後陽成天皇から「豊臣」の姓を賜ったのです。

2ページ目 惣無事令という勅命で戦国を終わらせる

 

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