
源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【前編】
愛される英雄
日本の歴史には多くの英雄が登場します。その中には、織田信長のように英雄視される反面、その冷徹非道ゆえに嫌われるという人物もいます。よくいわれる、好き嫌いがはっきりしているタイプです。
その点、源義経は多くの人から愛される「正統派の英雄」といっていいでしょう。義経が嫌われない理由のひとつは、悲劇の英雄に対する判官贔屓があるからだといわれています。
確かに、義経は源平の合戦で源氏を勝利に導いた最大の功労者でありながら、兄の頼朝から冷たくされ、ついには追討されてしまうという悲劇的で短い一生を終えました。
その儚い運命が人々の同情を誘い、ますます義経人気が増幅されているように思います。
その英雄・義経が最も活躍していたのはなんといっても源平の合戦であり、そこで義経はいくつもの戦功をあげました。中でも日本の合戦史に残る戦いが一ノ谷の戦いです。
「一ノ谷の戦い」に至るまで
1184(寿永3)年正月、後白河法皇は源範頼と源義経に平氏追討の宣旨を下しました。二人は京都を立ち、追討軍を率いて西へと向かいます。
一方、平氏は都落ちして讃岐国屋島(香川県高松市)にいましたが、二月、京を奪回しようと数万騎の軍勢で摂津・福原に進軍。摂津と播磨の境の一ノ谷(神戸市須磨区)に城郭を構えました。
また平氏は海上にも兵船を浮かべ、陸上の軍勢と呼応できる体制を敷いていました。まさに難攻不落の構えです。
範頼と義経の追討軍は、範頼が海側から、義経が丹波の山側からそれぞれ一ノ谷へ向かい、二月七日に海と山の両側から一斉に平氏の軍勢を襲う手はずになっていました。
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