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「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【中編】

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【中編】

大化の改新前後、激動の古代をリードした女帝・斉明大王は、日本の国家発祥の地ともいえる飛鳥京を造営した大王として知られています。

[中編]では、斉明が明日香に残した数々の巨大石造物について、その政治的な意図を含めてお話ししましょう。

※【前編】の記事はこちら↓

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【前編】

大化の改新前後、激動の飛鳥時代をリードした女帝・斉明大王(天皇)。彼女は、倭国(日本)の律令政治の幕開けの舞台となった、奈良県明日香村の飛鳥京を造営した大王として歴史的に再評価されています。…

斉明女帝が造らせた飛鳥の石と水の創造物

前編でお話しした通り、飛鳥京は「石と水の都」と称されています。これは飛鳥京を構成する際に、石と水を意図的に配置したことに由来するのです。

その中から益田岩船以外に、斉明大王が関わっていると考えられる石と水の創造物を紹介しましょう。

宮都防衛のための詰めの城「両槻宮(ふたつきのみや)」

『日本書紀』によると斉明は、「田身嶺の周りを取り巻く石垣を施し、嶺の上の二本の槻の木のそばに観(たかどの)を建てたので、両槻宮と呼んだ。また、天宮(あまつみや)ともいった」と記されています。

さらに、「水工に渠(溝)を掘らせ、香久山の西から、布留の石上山に至る。舟二百隻に石上山の石を積載し、宮の東の山に、石を積んで石垣とした」と続きます。

「渠」とは石材を運搬する船が通るための運河で、この記事によると200隻の舟を曳いて石上山から石材を運ばせたとあり、その石材を用いて、両槻宮の丘陵頂上部に石垣を築いたとします。

石上山の石とは、天理市石上周辺で産出される砂岩で、二上山で採れる凝灰岩と並び、明日香村に残る宮都の石材や古墳の石室などに使用されています。

両石とも加工しやすいのが特徴ですが、同じく明日香村の遺跡から出土する花崗岩は硬く加工が難しいという特徴があります。ちなみに、明日香一帯で産出される花崗岩は総称して「飛鳥石」と呼ばれています。

なお、この「渠」は、石材の運搬だけでなく、防御のための濠や灌漑用水など、複数の役割を果たしたとも考えられているのです。

しかし、この工事は非常に難工事であったようで、女帝は民衆から「狂心(たぶれごころ)の渠」と揶揄されました。

では、このような難工事を押し進めてまで築いた両槻宮の意義は何だったのでしょうか。

その謎を解く鍵は、当時の東アジア情勢にありました。この時期、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅による争いが激化し、互いに侵攻を繰り返していたのです。

三国(新羅、百済、唐)はそれぞれ倭国に使者を派遣しており、その情勢は斉明ら朝廷首脳部の知るところとなっていたのでしょう。

当時、倭国と朝鮮半島は密接な関係にあり、特に百済との結びつきは強固でした。劣勢に立たされた百済王・義慈の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)が、人質という名目で飛鳥に亡命してきたのも、皇極・斉明の治世の時期にあたります。

日本海を隔てていても、朝鮮半島の戦禍がいつ及ぶとも限りません。そのため、万一の事態に備えた防御施設の構築が必要でした。両槻宮は、飛鳥京の防衛を目的とした一種の山城として築かれたのです。

両槻宮の場所は、斉明の宮都である後飛鳥岡本宮の北東約200m、有名な酒船石がある丘陵と考えられ、裾野から石垣に用いた花崗岩、山頂付近から砂岩が発掘されています。

そしてこの懸念は、斉明崩御後に現実のものとなりました。百済救援のための遠征である白村江の戦い(663年)で、倭国は唐・新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫しましたのです。

唐・新羅の倭国侵攻を恐れた天智大王は、百済の遺臣たちに命じて、各地に大規模な朝鮮式山城を築かせました。斉明が整備した両槻宮は、まさにその先駆けともいえる重要な施設でした。

2ページ目 斉明が斎行する祭祀の場であった「酒船石と亀形石造物」

 

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