
源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【後編】
奇襲戦法は実行不可能!?
前述の、義経のあとに3000騎が続いたというのは『平家物語』の記述によるものですが、『源平盛衰記』には、このとき義経に続いた畠山重忠の様子が記されています。
※前回の【前編】の記事↓
源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【前編】
愛される英雄日本の歴史には多くの英雄が登場します。その中には、織田信長のように英雄視される反面、その冷徹非道ゆえに嫌われるという人物もいます。よくいわれる、好き嫌いがはっきりしているタイプです。…
それによると、重忠は「ここは大変な悪所です。馬をいたわりましょう」と言って大きな馬を背負い、椎の木をねじ切って杖にし、大岩を静々と下りていきました。
大きな馬を背負いながら下りていったというのも俄かには信じられませんが、実際、誰もが馬で駆け下りられたわけではないでしょう。
『平家物語』の3000騎は誇張としても、何十騎もの騎馬武者たちが険しい崖を真っ逆さまに駆け下りることが、果たして可能だったのかは疑問です。
また、それとは別に、奇襲戦法そのものがなかったという説もあります。その根拠は、鵯越の位置にあります。鵯越という地名は今もありますが、実は、そこは鞍部の山道なのです。険しい所ではありません。
そして、その鵯越という山道を義経のように下ったとしても一ノ谷には出ないのです。なぜなら、そこにはまた山があるからです。
つまり、現在の鵯越では『平家物語』が伝えるような義経の鵯越の逆落としはありえないのです。
そこで、義経の軍勢が実際に駆け下りたのは鵯越ではなく、現在の鴨越より西側にあたる鉄拐山(鉄拐峰ともいいます)や鉢伏山あたりではないかという説もあります。
また百歩譲って、一ノ谷の戦いで義経がとった奇襲戦法が、鵯越ではなく別の場所からの逆落としだったとしても、この合戦の源氏の勝因は別にあったという指摘もあります。
その勝因とは、後白河法皇から平氏に送られた一通の手紙です。
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