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源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【後編】

源義経の「鵯越の逆落とし」は実行不可能だった!?「一ノ谷の戦い」で平氏が敗れた本当の理由とは?【後編】:2ページ目

後白河法皇の謀略

手紙は、義経の奇襲が行われる前日の二月六日、平氏の陣中に法皇の近臣が届けました。そこにはこう書かれていました。

「和平交渉を行うので、八日に院使を送る。その間、戦うことがないように。このことは源氏にも伝えている。平氏の軍勢にもその旨を伝えるように」

法皇からの院宣であり、手紙を受け取った平氏の軍勢は従わないわけにはいかなかったはずです。言われるままに武装解除しました。

ところがその翌日、休戦中のはずの源氏が襲来したわけで、平氏の軍勢は源氏が攻めてくることはないと思って休んでいますから、どんな攻撃でも「奇襲」になってしまうのです。

つまり、一ノ谷の戦いで源氏が勝った真の原因は義経の鵯越の逆落としという奇襲ではなく、後白河法皇の謀略だったのです。

この謀略が実際にあったことは、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』に記されています。

それによると、源氏に生け捕りにされた平重衡が讃岐の平宗盛に書状を送っているのですが、その返事の中には「院宣に従うために近境に行幸します」と書かれていました。さらに、前述した院宣の内容も記してありました。

平氏が京に向かったのは、和平交渉が行われるという法皇の院宣のためであり、つまり彼らは法皇におびき出されたというわけです。

結局、平氏の軍勢は義経ではなく後白河法皇に騙されたのだと言えるでしょう。

参考資料:
日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い!変わる日本史』宝島社(2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia

 

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