
藤原京から平城京への遷都の理由…それは「あの人物」の権力誇示のためだった!?【後編】
大きな都が必要だったから…ではない
【前編】では、710(和銅3)年に行われた藤原京から平城京への遷都について、その経緯と疑問点を説明しました。
※【前編】の記事↓
藤原京から平城京への遷都の理由…それは「あの人物」の権力誇示のためだった!?【前編】
元明天皇による遷都学校の授業で、古代、現在の奈良市と京都市に平城京(「へいぜいきょう」とも言います)と平安京という有名な都があったことを学んだはずです。「平城京は奈良時代の始まり、平安京は平安時代…
【後編】では、そもそも遷都が行われた理由について見ていきましょう。
遷都の理由については、中国を手本に国家を建設しようとした朝廷が、中国の都にならって平城京を造営したとするのが定説です。
実際、藤原京がまさにそうした目的で造営した都でした。
あるいは大宝律令の施行にともない、国家の機構が拡大したため、より大きな都を必要としたという説もあります。
しかし1990年代の発掘調査の結果、藤原京はけっして従来考えられていたような小さい都ではなかったことが分かっています。
従来は大和三山に囲まれた狭い区域と考えられていましたが、実際は三山の外側まで区域とする平城京や平安京を上回る古代最大、日本最初の都だったのです。
よって、「より大きな都が必要だった」という説は説得力に欠けます。
衛生問題・飢饉・疫病…でもない
遷都の理由については他にもあります。
例えば、『続日本紀』の706(慶雲3)年3月の条に「京城の内外に多く穢臭あり」とあるのを根拠に、藤原京の環境の悪化をあげる説が挙げられます。
また当時は全国的に飢饉が発生し疫病が蔓延していたため、遷都の呪力で災を祓って福を招こうとしたという説などがあります。
しかし、歴史地理学者の千田稔氏は著書で「古代の遷都は、都市環境の変化といった非政治的条件でなされるものではありません。それよりも遷都は権力者の示威的行為です」(『平城京遷都』中公新書)と述べています。
遷都に消極的だった元明に遷都を宣言させ、決行させるだけの「権力者」は大臣級の人物しかいません。当時、そんな人物はいたのでしょうか。いました。
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