藤原京から平城京への遷都の理由…それは「あの人物」の権力誇示のためだった!?【後編】:2ページ目
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藤原不比等という人物
天皇に遷都を宣言させて、それを決行させるほどの、当時の権力者といえば藤原不比等です。
彼は自分の娘の宮子を、元明天皇の子である文武天皇の夫人にした人物。娘の宮子と文武天皇の間に生まれたのが首皇子(のちの聖武天皇)であり、不比等は外戚として権力を拡大すると708(和銅元)年に右大臣に任命されています。
不比等は、文武天皇の次の天皇は首皇子と考えていたに間違いありません。ところが文武天皇が25歳の若さで崩御したため、首皇子が成長するまでの「つなぎ」として元明天皇を即位させました。
律令国家を目指した不比等が見本としたのが唐でした。
704(慶雲元)年、遣唐使の粟田真人が帰国すると、唐の都・長安城について報告を受けます。その結果、長安城にならった自前の都を造ろうとしました。
藤原京は持統天皇が孫の文武天皇のために遷都した都だったのと同じように、不比等の孫である首皇子のためには新しい都を用意する必要がありました。
つまり、平城遷都は平城の地が四神相応の地であるからでもなく、攘災招福を祈願するためでもありませんでした。
天皇家の外戚となった不比等が、その権力を誇示するために行った可能性が高いのです。
そう考えると、【前編】でも説明した通り、元明天皇が遷都の理由について「皇族や大臣らみんなが遷都のことをいうので、衆議も無視できない。」と述べていたのと辻褄が合いますね。
参考資料:
日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC, Wikipedia
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