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「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】

「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】

改革への疑問の始まり

【前編】では大化の改新の概要と、その前後の中大兄皇子の行動について説明しました。

※【前編】の記事↓

「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【前編】

大化の改新とは何か645年(大化元年)に蘇我入鹿が暗殺された後、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、皇子が固辞したため軽皇子(孝徳天皇)に譲位します。そして孝徳天皇の時代に改新の…

【後編】ではこの改革への疑問と最新の説について見ていきましょう。

近年、「大化の改新」の内容を疑う専門家や研究者は少なくありません。また、中大兄皇子が即位しなかった理由にも疑問が付されています。

まず疑問の一つとして、皇極天皇が乙巳の変の2日後(入鹿の父・蝦夷が自殺し、蘇我氏宗家が滅んだ翌日)、慌ただしい状況の中で皇位を軽皇子に譲ったことが挙げられます。なぜ天皇はそんなに譲位を急いだのでしょうか。その理由について『日本書紀』に記載はありません。

皇極天皇は入鹿暗殺に加担していなかったとされており、退位することで責任を取る必要はありませんでした。大きな失政があったわけでもないのに、この時期に譲位する理由はなかったのです。

しかし、譲位が既定路線だったとしたら話は別です。つまり、皇極天皇が入鹿暗殺計画を事前に知っており、蘇我氏滅亡後に軽皇子に譲位することが最初から決まっていたということです。

2ページ目 即位できなかった?

 

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