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「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】

「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】:2ページ目

即位できなかった?

中大兄皇子が即位しなかった理由についても、孝徳天皇を傀儡に立てて皇太子として実権を握るためだったという従来の定説を疑う専門家や研究者は少なくありません。

文教大学教授の中村修也氏は「『皇太子』という存在が、大王(天皇)権力を超えて実権を握った例はない」と述べています。

確かに、中大兄皇子が中央集権国家を築こうとしていたなら、孝徳天皇を傀儡に立てるような回りくどい方法よりもストレートに自分が即位して全権を握った方が改革はしやすかったでしょう。

そこで、中大兄皇子は即位しなかったのではなく「できなかった」のではないかという説があります。

当時、中大兄皇子は20代の若輩であり、蘇我氏滅亡という大事件の後に諸豪族をまとめ、国家を建て直す大事業を行うのは困難でした。

つまりことの真相は、最初から入鹿暗殺の首謀者である軽皇子への譲位が決まっており、中大兄皇子への譲位の打診はそもそもなかったのではないか、ということです。

中村氏は「中大兄が孝徳天皇の『皇太子』となっていることも虚構の可能性が高い」としています。

皇子が譲位を固辞したという『日本書紀』の記述は、入鹿暗殺の立役者を中大兄皇子にした「作り話」の一部にすぎなかったということです。

入鹿暗殺後に皇極天皇から軽皇子へ譲位することが決まっていたからこそ、譲位の手続きは慌ただしく行われたのでしょう。

3ページ目 「改新の詔」も創作か

 

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