
幻と消えた平清盛の夢…わずか半年で消滅した「福原京」への遷都の経緯とその失敗の理由【前編】
半年で消えた「都」
鎌倉時代より前の日本の「都」といえば藤原京・平城京・長岡京・平安京が有名ですが、実はもうひとつ、平清盛が造った福原京というものがありました。
ただこの福原京はわずか半年で歴史から消滅してしまったため、影の薄い存在となっています。
今回は前編・後編に分けて、この福原京が造られた経緯と、消滅するまでの流れを解説します。
この福原京への遷都が行われたのは、平安時代末期の治承4年(1180年)6月2日のことでした。
平清盛を先頭に、安徳天皇、高倉上皇らの一行が平安京を出て、現在の神戸市に位置する福原京に向かいました。
この時のことについて『平家物語』は「かねがね御遷都あるとの風説はあったが、よもや今日明日のことだとは思わなかったものをと、京じゅうの上下貴は騒ぎ合った」と伝えます。
進む研究
約400年続いた平安京に代わる「新都」は、海に開かれた貿易都市でもありました。しかし貴族たちの反対が根強く、都としての役割をわずか半年で終えています。
遷都を主導した清盛の狙いは何だったのでしょうか。
通説では、平安京は地形的にも、攻められた際に防御に不向きだったからとします。
清盛は奈良興福寺などの反平氏勢力の勢いを警戒していたため、遷都政策を突然打ち出したというわけです。
その一方で、清盛が恐れをなすほどの軍事力が、当時の僧兵にあったとは考えにくいとの捉え方もあります。
こうしたさまざまな学説がある中で、当時の情勢や都の実態の研究などが進み、福原京への評価も変わってきました。
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