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「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】

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「改新の詔」も創作か

次に、大化の改新の中心である改新の詔ですが、これも現在は「後世に粉飾されたもの」という説が有力です。その根拠を整理しましょう。

まず、詔の4か条の中に、後世に制定された法典の文章と同一または類似する文章があることです。詔の第3条に田租に関する記述がありますが、これは701年(大宝元年)の大宝令や718年(養老2年)の養老令の文章と同一です。

また、詔の第2条に地方制度の郡に関する記述がありますが、「郡」という文字は当時まだ使われていませんでした。当時、木簡には「郡」にあたる文字が「評」と表記されていました。

従って、改新の詔は後世に作られたものであり、当時存在していたのかどうかも疑わしいとされているのです。

また、大化の改新で戸籍が作製されたと伝えられていますが、その実態は戸数調査程度だったのではないかという指摘もあります。

まとめれば、大化の改新の政策が実施された確かな史料は存在しておらず、孝徳朝で大きな政治改革が行われたというこれまでの定説は、今では支持されていないのです。

ちなみに、大化の改新が日本の歴史で評価されるようになったのは江戸時代のことでした。1848年(嘉永元年)に紀伊藩士の伊達千広が著した歴史書『大勢三転考』で初めて評価されたのです。

実は、それまでも大化の改新は『日本書紀』編纂時に捏造されたものと考えられていました。

こうして見ていくと、「大化の改新」を一大政治改革として評価するのは比較的最近の出来事であり、もともと史的事実としての信憑性も疑わしいと考えられていたことが分かります。

参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社(2014/8/20)

画像:photoAC,Wikipedia

 

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