
「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【前編】
大化の改新とは何か
645年(大化元年)に蘇我入鹿が暗殺された後、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、皇子が固辞したため軽皇子(孝徳天皇)に譲位します。
そして孝徳天皇の時代に改新の詔が発表され、天皇中心の中央集権国家を築くために行われた一大政治改革が、「大化の改新」です。
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乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子は「大化」という年号を定め、天皇中心の中央集権国家を築くため、さまざまな政策を行いました。
本稿では、この「大化の改新」はどのようなものだったのか、この政治改革は本当に行われたのか、その真相について前編・後編に分けて説明します。
天皇にならなかった中大兄皇子
上述の通り、孝徳天皇(軽皇子)が皇極天皇に代わり即位した後に行われた一連の政治改革を「大化の改新」と呼びます。
乙巳の変に始まる大化の改新の主役は中大兄皇子であり、次期天皇にふさわしい人物と思われますが、蘇我入鹿暗殺後、彼はなぜか皇位には就きませんでした。その理由について、『日本書紀』は次のように伝えています。
皇極天皇が中大兄皇子に皇位を譲ろうとすると、皇子は退出して中臣鎌足に相談しました。
鎌足は「兄上の古人大兄皇子がいるのに皇位を継げば、人の道に背きます。叔父上の軽皇子を立ててはどうですか」と進言し、皇子はその通りに天皇へ奏上します。
それならと天皇は軽皇子に譲位しようとしますが、今度は軽皇子も「古人大兄皇子が即位すべきです」と何度も固辞します。
しかし、中大兄皇子と軽皇子から推された古人大兄皇子が「私は出家して吉野に入り、仏道修行に励みます」と断ったため、結局軽皇子が即位し、孝徳天皇が誕生しました。
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