「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【前編】:2ページ目
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定説とその成果
上述の経過を記した『日本書紀』の記述について、これまでの定説では、中大兄皇子は「皇太子の方が自由に政治手腕を発揮できる」と判断したため譲位を固辞したとされています。つまり、孝徳天皇を傀儡に立て、皇太子として実権を握る道を選んだというのです。
ともあれ、孝徳天皇が即位すると、新しい政策が次々と打ち出されました。
手始めに東国に国司を派遣して戸籍の作成と面積の調査を命じ、646年(大化2年)の元日には「改新の詔」を発表。公地公民制、地方行政組織、交通、軍事の制度、戸籍、計帳、班田収授法、新税制など、大化の改新の基本方針を示しました。
この「改新」により、従来の氏姓制度に基づく皇室や豪族の個別支配体制は崩れ、公地公民制を基盤にした天皇中心の中央集権国家が築かれていったのです。
ここまでは、いわば「教科書通り」の解説です。しかしこの一大政治改革とされてきた内容には、現在、数々の疑問が投げかけられています。それについては【後編】で説明します。
※【後編】の記事はこちらから↓
「大化の改新」は後世の創作!?「乙巳の変」に秘められた謀略をめぐる最新学説を紹介【後編】
改革への疑問の始まり【前編】では大化の改新の概要と、その前後の中大兄皇子の行動について説明しました。※【前編】の記事↓[insert_post id=243478]【後編】ではこの…
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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