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「こたび治部めが妄想に駆られて兵を挙げてくれなければ、殿が勝つことはできず、天下の政権を握ることも叶わなかったのです」
確かに、戦いが始まらなければ勝ちも負けもありません。もし三成たちが挙兵しなければ、そのまま平穏無事に豊臣家の天下が続いていたことでしょう。
「ゆえに治部めは殿に天下をとらしめた最大の功労者と申し上げたのでございます」
「なるほど。まったく『大鋸屑も言えば言わるる』ものよ」
正信の皮肉に気づいた家康は、一本取られたと苦笑いしました。
ちなみに大鋸屑(おがくず)とはノコギリで木を切った時に出るゴミですが、これを言い換えた慣用句です。
「それがしが木を切ったついでに大鋸屑が出るのではなく、それがしは大鋸屑を作るために木を切っているのです」
つまり石田三成が兵を挙げたのは家康を倒すためではなく、むしろ家康に天下をとらせるためあった……と。要するに「モノは言いよう」ということですね。
終わりに
……本多佐渡守正信 中納言殿の御供して。二條の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。妙心寺のうち寿性院が弟子になりて。すでに幼年より釈徒にも成てある事なればゆるし給はれとかの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば。正信承りそれは早く御許あるべし。三成は 当家へ対し奉りてはよき奉公せし者なれば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあらむと申す。 君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄意にかかる事企てずば御勝にもならず。 当家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は 当家への大忠臣と存ずれといへばほほゑませ給ひ。おかくずもいへばいはるゝものとの御戯言ありしとぞ。(霊岩夜話。)按ずるに此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には済院和尚といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。……
※『東照宮御実紀附録』巻十一「免三成遺子」
以上、石田三成の遺児が生命を救われたエピソードを紹介しました。
普通に「助けてあげて下さい」と言えばいいのに、あえて「(家康に天下をとらしめた)三成の功績に免じて赦してやって下さい」と気の利いたジョークで助けた正信のセンスが秀逸ですね。
その後、三成の遺児は修行の末に済院和尚と呼ばれ、和泉岸和田に暮らしました。その後、年老いてからは岡部宣勝に養われ、最期を看取られたということです。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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