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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」♪走れ、走れ、強右衛門~♪第21回放送「長篠を救え!」振り返り

「どうする家康」♪走れ、走れ、強右衛門~♪第21回放送「長篠を救え!」振り返り:4ページ目

奥平信昌と前妻「於ふう」のこと

亀姫との婚約が取り決められていた奥平信昌。劇中では言及がなかったものの、実は彼には前妻がいました。

その名を「於ふう(おふう)」と言い、同族である奥平貞友(さだとも)の娘です。

武田の元へ人質にとられていたのですが、奥平信昌と父・奥平貞能(さだよし)が徳川へ寝返ると、勝頼は見せしめに彼女を処刑します。

信昌はまだ16歳であった於ふうを離縁し、連帯責任が及ばぬように取り計らいましたが、勝頼は許しません。山県昌景(演:橋本さとし)に命じて殺させたのでした。

時に天正元年(1573年)9月21日。この時、信昌の弟である奥平仙千代(せんちよ。13歳)も一緒に処刑されています。

……という経緯があることを、信昌に言わせて欲しかったですね。

「妻を奪われ、弟を殺された!絶対に武田を許さない!」くらいの熱量があれば、徹底抗戦の動機もより納得がいきます。

しかし、それを明かしてしまうと「徳川のお姫様が嫁いでくるぞ!わーい」と素直に喜びにくくなってしまうでしょう。

さらに話もややこしくなるでしょうから、前妻の存在は伏せて、亀姫が嫁いでくる喜びだけに焦点を当てたようです。

それはやむなしとしても、どうか於ふうのことも知っていただけたらと思います。

ちなみに奥平「信」昌の信は、武田の大軍から長篠城を守り抜いた武功により、織田信長からさずかったとする説が有名です。

筆者も『徳川実紀』などからそう知っていたのですが、どうやらこの信は武田晴信(信玄。演:阿部寛)からさずかったとする説もあるとか。

長篠の合戦より前に信昌名義で発行した書状が発見されたとのことで、そうなると通説が変わってくる可能性があります。

ちなみに、元の名前は奥平貞昌(さだまさ。定昌)でした。武功によって名前を改める名場面も見たかったですね。

5ページ目 徳川と織田の同盟破棄は有り得たのか?

 

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