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羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】
小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)で激闘を演じた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と徳川家康(とくがわ いえやす)。
合戦においては家康が優位に立ったものの、秀吉は老獪な政治力で家康の大義名分を奪ってしまいました。
すなわち、家康側の総大将であった織田信雄(おだ のぶかつ)を籠絡、和睦に持ち込んだのです。
これ以上戦えなくなった家康は、ひとまず秀吉と和睦せざるを得ませんでした。
まさしく「戦闘には勝ったが、戦争には負けた」状態。家康としては、このまま大人しく引き下がりたくはありません。しかし、このまま戦い続ければ、秀吉の圧倒的物量を前にやがて押しつぶされるでしょう。
そんな中、秀吉から「徳川・羽柴両家の末永い友好すなわち天下泰平のため、徳川殿のご子息を、当家の養子にお迎えしたい」という申し出がありました。
養子と言えば聞こえはよいものの、実質的には人質です。正直出したくありません。
さぁ、誰を出したものか……そこで白羽の矢が立ったのが、次男の於義丸(おぎまる)、後の結城秀康(ゆうき ひでやす)でした。
今回はなぜ於義丸が選ばれたのか、その出生から紹介したいと思います。
つけた名前はナマズ(ギギ)に由来
……三河守殿は、徳川殿第二の御子、御母は家の女房、いさゝかゆゑ有て、三河国産見(うぶみ)といふ所にて生れ給ひ、徳川殿御子ともし玉はず、本多作左衛門重次とりて養ひ参らせ、御名をば於義丸殿と申奉る……
※『藩翰譜』第一 越前
於義丸は天正2年(1574年)生まれ。母親は徳川家に仕えていた侍女・於古茶(おこちゃ。お万の方)でした。
彼女は家康の子を懐妊した際、家康正室の築山殿(つきやまどの)によって浜松城から追い出され、三河の片田舎でひっそりと出産します。
「殿、男児が生まれましたぞ!」
普通に考えればめでたいことで、家康としても確保しておきたいところ。しかし家康は築山殿に睨まれるのが怖くて、これを我が子と認知しませんでした。
「ならば、せめて名前をつけてやって下さい」
懇願された家康は、生まれた男児に於義丸と名づけました。文献によっては於義伊(おぎい)とも呼ばれます。
「ぺちゃむくれた顔が、ギギ(鱨)みたいじゃからな」
ギギとはナマズの一種で、捕まえるとギィギィ鳴くからそういうのだとか。写真を見ると愛嬌のある顔ですが、子供の名前につけるのはいかがなものでしょうか。
よほど可愛くなかった、あるいは築山殿の手前そう振る舞わねばならなかったものと思われます。
この話を聞いて、可哀想に……と思ったのは、読者(あなた)や筆者だけでなかったのがせめてもの救い。
於義丸と於古茶母子は徳川家臣の本多作左衛門(ほんだ さくざゑもん。本多重次)に保護され、ひっそりと暮らすのでした。
余談ながらこの作左衛門、鬼のような豪傑ながら大変な子煩悩で、父親に愛されない於義丸を放っておけなかったのでしょうね。
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