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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】

羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】:3ページ目

信康死後、浜松に迎えられるが……

……かくても猶重次が許にぞ、ひとゝせならせ玉ひける。三郎殿うせ給ひて後は、徳川殿此人のましますを、頼もしき事に思召す……

※『藩翰譜』第一 越前

しかし家康の意志は固く、と言うよりよほど築山殿が恐ろしかったようで、於義丸たちが浜松に迎えられることはありませんでした。

「まったく、父上は頑固よなぁ……」

何とか於義丸を家康の元へ迎え入れさせたい信康でしたが、そうこうの内に天正7年(1579年)に築山殿事件が発生。

信康と築山殿は、武田勝頼(たけだ かつより)と内通していた容疑で処刑されてしまったのです。

家康としては徳川家の後継者として立派に成長していた嫡男を喪い、途方に暮れる思いでした。

「……あぁそう言えば、男児ならもう一人いたっけな」

この期に及んで家康は、思い出したかのように於義丸を浜松城へ呼び出します。怖い築山殿がいなくなったので、もう遠慮は要らなくなったのでしょう。

「あぁ、母親の方も来てよいぞ」

於義丸と一緒に於古茶も招かれましたが、この時すでに寵愛は西郷局(さいごうのつぼね。於愛の方)に移っており、この年に三男の長丸(ちょうまる。徳川秀忠)を生ませていました。何なら翌天正8年(1580年)には四男の福松(ふくまつ。松平忠吉)も生まれます。

長丸に福松……於義丸との名づけに、愛情格差を感じてしまいますね。可哀想に……。

しかし嫡男の長丸がいるなら、もう於義丸は要らないんじゃ?と思うかも知れません。当時は乳幼児の死亡率が高く、スペアがあるに越したことはないのです。

要するに「長丸が無事に育つまで、保険として養っておく」意図が透けて見えます。さすが「我らが神の君」、あらゆるリスクに対して万全の備えを欠かしません。

4ページ目 人質に異父弟を差し出そうとするが……

 

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