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羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】:4ページ目
人質に異父弟を差し出そうとするが……
……天正十二年冬、豊臣秀吉北畠殿につきて、御子一人、養君とし奉るべきよしを申さる、徳川殿異父同母の御弟、三郎四郎殿をのぼせ給ふべしとありしに、御母上ゆるさせ給はねば、力なく、於義丸殿のぼらせ玉ふべきに定り、この年十二月の末、大坂尓趣かせ玉ふ……
※『藩翰譜』第一 越前
そうこうの内に歳月は流れて天正12年(1584年)、於義丸は11歳になっていました。
もうすぐ元服かな。とりあえず後継者候補を確保できれば、それなりの体裁は整うな……なんて思っていた矢先に、秀吉から養子縁組の申し入れです。
さて、誰を出したものでしょうか。長丸と福松は絶対に嫌です。かと言って、せっかくここまで育てた於義丸もあと数年は手放したくはありません。
どうしようかなぁ……そうだ!家康が思いついたのは、異父弟の松平康俊(やすとし。源三郎)か松平定勝(さだかつ。源四郎)。
家康の母・於大の方(おだい)が松平広忠(ひろただ。家康実父)と死別後、久松俊勝(ひさまつ としかつ)と再婚して生んだ息子たちです。
彼ら(※どっちでもいい)なら、別に秀吉へ差し出したところで痛くもかゆくもないや……なんて思っていたら、於大の方が猛反対。家康はこっぴどく叱られてしまいました。
「(※我らが神の君の名誉に関わるため、詳細は割愛)……っ!!!」
「……はい、すいませんでした」
そもそも源三郎はかつて甲斐の武田信玄(たけだ しんげん)へ人質に出され、エライ目に遭っているのです。
これ以上、あなたの勝手で息子たちを傷つけられてなるものか……母の気魄に圧倒された家康は、仕方なく於義丸を秀吉に差し出すのでした。
終わりに
……秀吉深く悦ひ、やがて元服の儀行なはれ、羽柴秀康と名のらせ、河内国にて所領参らせ、一万石 明る十三年七月十一日、みづから関白し給ふとき、秀康朝臣御年十二歳なるを、四位の少将兼三河守になさる……
※『藩翰譜』第一 越前
さて、於義丸を迎えた秀吉は大喜び。じっさい人質ではあるけれど、やはり子供好きだったのかも知れません。
間もなく於義丸を元服させ、名前を羽柴秀康(ひでやす)と改名させました。秀吉の秀に、家康の康。両家の絆を深める役割を期待されたことでしょう。
そして河内国に1万石の所領を与えられ、翌天正13年(1585年)7月11日に秀吉が関白に就任すると、秀康も四位の位階と少将・三河守の官職を与えられました。
時に12歳、秀康の人生はまだまだ始まったばかりです。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では岐洲匠さんがどんな熱演を魅せてくれるのか、今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 新井白石『藩翰譜 一』国立国会図書館デジタルコレクション
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