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一、出なかった「鯛の天ぷら」
多くの視聴者が楽しみにしていた?家康が鯛の天ぷらを食べる場面。よく死因とされますが、鯛の天ぷらに中ったのは死の3ヶ月前。
直接の死因ではなかったものの、これを機に衰弱していったのは確かなようです。
……元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四郎次郎京より参謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の辺にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に韮をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原内記清久より能浜の鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ様に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへしまたなやましくおはして。はかばか志くもうすらぎたまはず。 君にはとくにその御心を決定せしめられしにや。近臣には兼て御身後の事ども仰られしなり。……
※『東照宮御実紀附録』巻十六「元和二年家康大漸」
時は元和2年(1616年)1月21日。鷹狩りを楽しんだ日の夜、茶屋四郎次郎(三代目)が挨拶にきました。この茶屋四郎次郎は、ゲジゲジ眉毛(二代目)の弟です。
「おぉ、四郎次郎。よう参ったな。どうじゃ、近ごろ上方で面白いことなどないか」
「はい、大御所様。京都大坂では鯛を榧(かや)の油で揚げて、おろした韮(ひる。ニラともニンニクとも)を薬味に食うのが流行っております。前にそれがしも頂きましたが、それはもう風味のよいこと……」
面白い話を聞いた家康は大喜び。「たしか今朝、献上された鯛があったから、さっそくやってみよう!」と作らせました。
「うむ、確かにこれは美味い、美味いぞ!」
しかし75歳にもなって、日ごろ食い慣れぬ油料理をタラフク食えば、そりゃ腹を壊すのも無理はありません。
鯛が傷んでいたのか、それとも油が古くなっていたのか、あるいは食べ合わせの問題でしょうか。
とにかくその日は外泊予定を取りやめ、大急ぎで駿府城へ帰った家康。ちょっと休めばじきに治ろうと思ったのですが、思いのほか体調が回復しません。
これはいよいよまずいんじゃないかと危惧した家康は、近臣たちに遺言を伝え始めたということです。
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