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【最終回予習】本当に色々(1616年)あったね…徳川家康の死から「神の君」となるまで【どうする家康】:3ページ目
家康が亡くなる年から神の君(東照宮)となるまで・略年表
元和2年(1616年)
1月21日 駿河国田中で鷹狩りの夜、体調が急変(鯛の天ぷらが原因?)
3月27日 朝廷より太政大臣に叙せられる
4月17日 駿府城で神去り、亡骸は久能山に安置される
大河ドラマではどう描かれる?徳川家康の最期を『葉隠』はこう伝えた【どうする家康】
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は75歳で世を去りました。人質の身分から永年の苦節を乗り越え、遂には江戸に幕府を開き天下人へと上り詰めた波乱万丈の生涯は、今も多くの人々から畏敬されて…
元和3年(1617年)
2月21日 朝廷より東照大権現の神号を贈られる
3月9日 朝廷より正一位を贈られる
4月16日 遺言により亡骸を日光山に移し、鎮座する
4月17日 祭礼が執り行われ、勅使らが参列する
正保2年(1645年)
11月3日 朝廷より東照宮の宮号を贈られる
正保3年(1646年)
4月 朝廷より例幣使が参向し、以来恒例となる
終わりに
以上、家康の死から神となるまでの流れを紹介してきました。
この東照大権現という神号には一悶着あったそうで、南光坊天海と金地院崇伝で「権現」がよいか「明神」がよいか争ったと伝わります。
論争の次第によっては「東照大明神」だったかも知れないのですね。
しかしやっぱり「ダイゴンゲン」という響きの方が家康らしい質実剛健さが伝わって好ましく思います。
なお、遺言で亡骸を日光に移させたのは、おそらく北の奥州(東北地方)へ睨みを利かせるためではないでしょうか。
たとい職を辞しても、自分はあくまで征夷大将軍。坂上田村麻呂の古えより、東夷(あづまゑびす)を抑え・従えるのが本分でした。
一方で西国への警戒も抜かりなく、自分の霊柩には抜き身の白刃を西へ向けて納めさせたそうです。
こうして神となり、二世紀半余にわたる徳川の世をもたらした徳川家康。本当に、色々(1616年)お疲れ様でした。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
トップ画像: NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
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