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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」大勝利だが拭えぬ不安。第32回放送「小牧長久手の激闘」振り返り

「どうする家康」大勝利だが拭えぬ不安。第32回放送「小牧長久手の激闘」振り返り:2ページ目

「その手は既にお見通し」中入りを読み、敵の裏をかいた家康

……卯月六日池田勝入。森長一。堀久太郎秀政に三好孫七郎秀次を総手の大将とし。二万餘騎の兵をわけて楽田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありと志りて。みかたのうしろにまはり三河の空虚をうたんとのはからひなり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

天正12年(1584年)4月6日、池田恒興は森長一(長可)、堀秀政(ほり ひでまさ)が出撃。総大将は秀吉の甥・三好秀次(みよし ひでつぐ。羽柴秀次)、総勢2万の大軍を率いています。

これは家康が戦力の大半を小牧山に集中させており、手薄になっている三河を討つふりをしておびき出そうとする作戦です。

この部分は基本的に劇中どおりですね。さて、対する我らが神の君は?

……君は兼て篠木の郷民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原并に水野惣兵衛忠重。本多彦次郎康重。丹羽勘助氏次。岡部彌次郎長盛などいへる名にあふものらに。甲州穴山勢をそへすべて四千餘の人数にて。敵に志らせじと轡を巻て龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

家康は地元住民からの通報により、中入りの動きを察知します。

そこでさっそく大須賀康高(おおすが やすたか)・榊原康政(さかきばら やすまさ)・水野忠重(みずの ただしげ)・丹羽氏次(にわ うじつぐ)・岡部長盛(おかべ ながもり)らに兵4千を与え、敵に覚られぬよう出撃させました。

後に榊原康政が一番槍の武功を立てたことが、劇中でも言及されていましたね。

……君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりは小牧山を打立せ給ばへ(※給へば、の誤植と思われる。引用者註)。信雄も御跡にしたがふ……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

先発隊からの報告を受けた家康は、午後20:00ごろに小牧山を出発。信雄もこれに従います。

……惣大将秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次が陣こはいかにとあはてふためき。秀次の軍師と頼みし穂富の某をはじめ。名あるつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

一方その頃、総大将の秀次は白山林で兵馬を休憩させていたところ、家康の奇襲を受けてしまいました。

まさか、こんな所に家康が……秀次らは慌てふためき、多くの将兵を討ち取られる事に。

軍師の穂富(ほとみ)ナニガシはじめ名だたる者たちを喪い、秀次は生命からがら逃げ延びたのでした。

この辺りは、劇中でも描かれていましたね。池田恒興らはこの一連で討たれた印象ですが、彼らはまだ抗戦しています。

3ページ目 井伊の赤備えと池田恒興・森長可の最期

 

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