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酒井忠次(大森南朋)を呼ぶときの「左衛門尉(さゑもんのじょう)」にはどんな意味がある?【どうする家康】:2ページ目
多くは自称(私称)だった戦国武将の官途名
ところで、ここまで話を聞いて「ところで酒井忠次って、京都で衛門府に仕えていたの?」という疑問を持たれた方もいるでしょう。
中にはそういう官職と勤務実態が合致していた武士もいるでしょうが、少なくとも酒井忠次が朝廷に仕えた記録はありません。
要するに名前だけの名誉職です。しかも朝廷から正式に授けられた官職ではなく、自称(私称)でした。
こういう官職の私称を官途と呼び、代々襲名したり主君から許されたり、自分で勝手に名乗ったりしていたのです。
酒井家では左衛門尉を代々襲名しており、『寛政重脩諸家譜』によれば忠次の父・酒井忠親(ただちか)や兄の酒井忠善(ただよし)が左衛門尉を名乗っていました。
その例にならって忠次も左衛門尉を襲名しましたが、やがて天正14年(1586年)左衛門督に任官しています。これは主君・家康の推挙によって正式に認められたものです。
さらに地方の大名家では
ちなみに朝廷とのつながりが薄い地方の戦国大名家などでは、家臣に対して「そなたを肥後守に任ずるよう、わしが朝廷に推挙しておくぞ!」とか何とか言って、勝手に任じていたとか。
実情を知らない家臣はそれをありがたがって「山田肥後守」とか「田中隼人正(はやとのかみ)」などと名乗り、また呼ばれていたのでしょう。
現代の私たちからすれば中身のない、しかも非公式の官職で得意になっていた武士たちの姿は、ある意味で滑稽に見えるかも知れません。
しかし自分の忠義や武功について、主君から「肥後守の官職にふさわしい」と評価してもらったことは間違いなく名誉でした。
あるいは浪人が仕官が少しでも有利になるよう、ハッタリで自称するにしても、戦国乱世を生き抜こうとする気概が好ましく感じられます。
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