
第45代・聖武天皇の謎すぎ行動「彷徨五年」実は計画的!?優柔不断な人物像をくつがえす最新学説【後編】
大仏建設に向けて
聖武天皇の謎の「彷徨」とされる行動について、【前編】では一般的な定説を説明しました。【後編】では、これに対する新しい学説をみていきましょう。
※【前編】の記事はこちら↓
第45代・聖武天皇の謎すぎ行動「彷徨五年」実は計画的!?優柔不断な人物像をくつがえす最新学説【前編】
不可解な行動「思うところがあって、今月末よりしばらく関東に行く。そのような時ではないが、やむを得ない」『続日本紀』によると、日本の第45代天皇である聖武天皇は天平12年(740(年)10月…
平城京を出て約1か月半後、恭仁京となる地に到着して都と定め、造営に取りかかった聖武。
彼は国分寺建立の詔を発し、さらに天平14年以降、離宮として北東約30キロの紫香楽宮の建設に並行して着手します。
そうして紫香楽の地大仏造立の詔を発し、鎮護国家の思想に基づく政策を進めようとしました。
彼は2か所の造営に労働力や資材を投入しますが、天平15年末には恭仁京の造営を停止。一方、紫香楽では大仏造立を進めます。天平16年頃にかけて、7世紀以来の宮都・難波宮に一時期移るなど、1か所に腰を据えることはありませんでした。
そして最後は、紫香楽で山火事や地震が頻発したことを受け、平城京に戻っていきます。
この、一連の慌ただしい動きは何のためだったのでしょうか。これは、恭仁京が木津川に近く、資材などを運ぶのに適した場所だったことがポイントです。
彼はそんな恭仁京を、紫香楽に大仏を建立するための拠点としました。難波宮に移動したのは、平城京に帰ろうとする勢力がある中で、それを阻止する行動だったのではないかと解釈可能です。
大仏の造立は結局、平城京で実現しており、仏教で鎮護国家を目指す点では頑固なほど一貫していたと言えるでしょう。
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