今見る大阪城は徳川時代の再建だった!秀吉時代の大坂城を徹底破壊して築城した近世要塞の見どころ【どうする家康】:4ページ目
秀頼・淀殿自刃の地と伝わる山里丸
本丸北端部の一段低くなった場所にあり、秀吉の命により千利休が造営した茶室を含む風雅な曲輪だったといいます。大阪城落城の翌日、この曲輪に追い詰められた秀頼・淀君、およびその近臣達がこの曲輪に建つ櫓で自刃したとされますが確かなことは不明です。自刃の地として有力な朱三櫓のあった場所に「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」の石碑が立ち、献花が絶えません。
真田幸村が関係?空堀のなかにある抜け穴
空堀と水堀の境目に不思議な石組。高さ1.5m、幅2m程度の石組みが空堀の外側と内側をつないでいます。内部は大人が背をかがめてやっと通れるくらいの空洞になっており、何のために造られたかは不明です。真田幸村が掘った抜け穴と言う説もあります。
明治になり復活を果たした豊臣神社
祭神は、豊臣秀吉・秀頼・秀長。江戸時代を通じて秀吉を祀ることは禁じられていたが、明治になり復活した京都豊国神社より分祀されました。境内には社殿の他、秀吉の銅像が立ち、秀吉にちなんで出世開運の神様として市民に親しまれています。
石山本願寺由来の蓮如上人袈裟掛けの松
大阪城は本願寺八世蓮如上人によって築かれた巨大寺院要塞、石山本願寺の跡に築かれました。現在、大阪城内で蓮如上人に関する唯一の遺構で、上人の命日である3月25日に南御堂によって毎年法要が営まれます。
いかがでしたでしょうか。豊臣秀吉の遺構と考えがちの大阪城は、実は徳川家の城郭であったのです。そうした視点で、大阪城をめぐると新しい歴史が見えてくるかもしれませんね。
※参考文献
『大阪歴史探訪ルートガイド』 メイツユニバーサルコンテンツ刊 大阪歴史文化研究会著(高野晃彰・執筆編集)