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今見る大阪城は徳川時代の再建だった!秀吉時代の大坂城を徹底破壊して築城した近世要塞の見どころ【どうする家康】

今見る大阪城は徳川時代の再建だった!秀吉時代の大坂城を徹底破壊して築城した近世要塞の見どころ【どうする家康】:2ページ目

今は博物館として約9千点を越える文化財を所蔵する天守閣

徳川時代の天守台の上に、豊臣時代の天守閣を模して鉄筋コンクリートで再建。
館内は歴史博物館になっており、多数の文化財を所蔵していて、観賞することができます。

鉄張りの堅固な造りの正門・大手門

徳川大阪城の正門。1628(寛永5)年に渡櫓型の櫓門と高麗門からなる枡形門として建築されました。多門櫓・千貫櫓・塀三棟を含め国の重要文化財に指定。一見簡素に見えるものの、正面に立つと鉄張りの堅固な造りであることがわかります。南側の控え柱は、蟻継ぎ・殺ぎ継ぎという現代では不可能な手法で繋いでいることで知られます。

大手門を守備する重要な千貫櫓(加藤忠広刻印石)

西の丸公園の西南隅に位置する櫓で、大手門を側面から防御する役目を担います。石山本願寺・豊臣時代にもこの場所に櫓が存在したとされ、織田信長が「あの櫓を落としたものには千貫門を与えても惜しくない」と称したことから、千貫櫓の名称がついたとも。西の丸庭園側からは加藤清正の子、隈本藩主・加藤忠広の刻印石が確認できます。

かつて櫓が設けられていた仕切り門・太鼓櫓跡

徳川大阪城に設けられた仕切り門の一つ。仕切り門とは、敵勢の本丸への侵入を防ぐために二の丸に設けられた石塁で、かつては5カ所存在していました。この門はその中で唯一、ほぼ完全な状態で石塁が残っています。門の西側の石垣上には、かつて太鼓櫓がありました。二間四方・二層の小規模な櫓で、平時の時報・緊急時の召集用として太鼓が打ち鳴らされていたと伝わります。

3ページ目 岡山藩主池田忠雄が運び込んだ桜門内の蛸石

 

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