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全ての政治家は上杉鷹山を見習うべし!米沢藩を救った民福主義の改革とは【後編】

全ての政治家は上杉鷹山を見習うべし!米沢藩を救った民福主義の改革とは【後編】:3ページ目

米に頼らない財政改革で全借財を返済

借財が累積した米沢藩を救ううえで、一番大切であったのは「財政改革」であったことはいうまでもありません。財源を得るならば、年貢である米を増産すればよいのですが、飢饉の影響や荒れた土地が多い米沢では、財源の柱となる米を増産することは不可能でした。

そこで、鷹山は米に代わるものとして、寒い土地でも栽培が可能な、漆(うるし)、桑(くわ)、楮(こうぞ)といった商品作物に目をつけます。そして、それぞれ100万本の植樹計画を立てました。

新たな産業を生み出す企画力と行動力

100万本植樹計画は、まさに大規模な産業開発そのものでした。鷹山は、領内に住む、武士・農民・商人・職人の全てをこの植樹計画の要員とします。そして、ただ命令するのではなく、植樹費用を支給し、成木になった時は藩が一定の値段で買い上げるなどの保障をつけ、家臣や領民に対して細かいフォローを行ったのです。

漆の販売による換金、楮による製紙業、桑による養蚕業の発展など、100万本植樹計画は、年貢に替わる米沢藩の財政源として充分な機能を果たしました。

さらに、鷹山は米沢織や紅花染、笹野一刀彫り、養殖鯉などを推進しました。これらは、現在も米沢の地場産業として引き継がれています。

こうして、米沢藩の借財は鷹山が後見した治広の時代に全てを返済。さらに、鷹山の遺志を引き継いだ代々の藩主により、備蓄金と石高は増加していったのです。

4ページ目 鷹山が行った民のための疫病対策

 

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