大河ドラマ『べらぼう』親なし・金なし・風流なしが江戸のメディア王に!蔦屋重三郎の生涯を完全予習【後編】:4ページ目
まだ素人同然だった「写楽」を見出す
そこで、蔦重は当時まだ素人同然だった東洲斎写楽を起用し、極端にデフォルメされた独特の役者絵の販売に乗り出したのです。
今でこそ有名な写楽の絵ですが、当時は役者を美化して描いた絵のほうが人気で、リアルで特徴をクローズアップし過ぎる写楽の絵は受け入れられませんでした。
写楽が活動していたのはわずか10ヶ月間ほどで、現存する作品は140点しかないそうです。近年では、「阿波藩お抱えの能役者だった」とされているものの、今もって謎に包まれている絵師といわれています。
再び、別の新人浮世絵師を見出してプロデュースしようとしますが、その矢先
蔦重は寛政9年(1797年)5月6日、47歳という若さでその生涯を終えてしまいました。
死因は馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などから脚気と伝えられています。
当時、江戸の身分の高い人や金持ちの間で流行った脚気は、胚芽部分に含まれるビタミンB1を削ぎ落とした「白米」が中心の食事が原因だったそうです。(地方のほうでは玄米などが主食だったために、脚気は「江戸患い」とも呼ばれていたとか)
お江戸のセレブとなった蔦重も、白米ばかりを好んで食べていたのでしょうか……。
発想力や才能に恵まれた花のお江戸の一流名プロデューサー蔦屋重三郎。
彼は、その後の日本の文学・美術に大いに貢献した人といえるでしょう。