大河ドラマ『べらぼう』親なし・金なし・風流なしが江戸のメディア王に!蔦屋重三郎の生涯を完全予習【後編】:3ページ目
超売れっ子になるも財産半減の処罰
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの一流プロデューサーとなった蔦屋重三郎。
ところが、天明2年(1782年)から続く飢饉によって世の情勢は不安定な状況になり、その勢いに陰が指します。
そんな状況下で、経済優先の政策を推し進めた田沼意次が失脚。老中となった松平定信が、天明7年(1787年)に寛政の改革を断行しました。
「出版統制令」により寛政3年(1791)、浮世絵師で戯作者の山東京伝著書の洒落本が風俗を乱したとして罰せられ、蔦重もその本を出版した罪で、財産半減の処罰を受けることとなったのです。
多くの財産を失った蔦重。さらに、売れっ子だった京伝の筆も湿りがちになり、親交の厚かった喜多川歌麿が自分の元から離れていくなど次々と不運が続き、さすがの重三郎も意気消沈してしまいます。
そこで目を付けたのが、今まで手をつけていなかった役者絵でした。当時は、歌川豊国の役者絵が売れていたので蔦重は対抗馬として勝川春朗をあてますが、残念ながらヒットにはいたらなかったのです。