上杉謙信の真のライバル!?離反を繰り返し、なんと8度も謙信と戦った戦国武将・佐野昌綱とは?:3ページ目
唐沢山城の戦い終結
人質がいることもあり、ここからしばらくは謙信の元にいました。
そんな折、永禄9年(1566)の臼井城の戦いで謙信が敗北し、後北条氏の勢いが増したことで、昌綱はまたまた後北条氏の元に行きます。
そんな昌綱を見た謙信は、永禄10年(1567)2月に唐沢山城を攻めますが、積雪だったこともあり、再攻撃のために雪解けを待ちました。
そして同年3月、雪解けを待った謙信に唐沢山城を攻められ、昌綱は再び降伏します。
それでも元亀元年(1570)に離反。謙信も昌綱に対抗して軍を向けますが攻略できず、唐沢山城を巡る戦いはこれを最後に収束しました。
互いを認め合った昌綱と謙信
昌綱と謙信は、永禄4年(1561)から元亀元年(1570)までの約10年間で8回に及ぶ戦いを繰り広げました。
それでも落城しなかった唐沢山城を、なぜ謙信は執拗なまでに攻め続けたのかと言うと、関東へ進軍するための重要な拠点として見ていたからです。
しかしながら、唐沢山城自体難攻不落な上に、幼年より人並外れた知恵を持ちつつ軍略に秀でた昌綱がいたため、翻弄されてしまう結果となりました。
そんな昌綱を何度も助命したことから、謙信は昌綱の才覚を認めていたことがうかがえます。
昌綱も謙信を認めていたようで、謙信より先に天正2年(1574)4月8日に亡くなりましたが、自身のお墓には命日を謙信の一周忌である天正9年(1579)3月13日と刻ませました。
これは、謙信よりも長生きしたという対抗心を示すために遺言で残したといわれています。