上杉謙信の真のライバル!?離反を繰り返し、なんと8度も謙信と戦った戦国武将・佐野昌綱とは?:2ページ目
謙信との戦いで天下に武勇を知らしめる
翌年の永禄4年(1561)には謙信に従って小田原城を包囲しました。
しかし、第四次川中島の戦いが控えていたことで謙信は攻略できずに撤退。これを好機と見た氏康による唐沢山城侵攻で、援軍もなく孤立した昌綱は降伏します。
これを反逆と見た謙信は唐沢山城へ向けて軍を進めます。しかし、唐沢山城の防御の高さと冬の到来によって兵を引き上げました。
永禄5年(1562)にも謙信は侵攻しましたが、攻略できずに兵を引き上げます。
謙信の侵攻を2度も防いだことで、昌綱は名と武勇を天下に知らしめることになりました。しかし、永禄6年(1563)に謙信が行った関東出兵により降伏し、同時に唐沢山城を開城しました。
謙信の攻撃から徹底的に抵抗した昌綱
このまま謙信の元にいることを良しとしなかった昌綱は、永禄7年(1564)2月に謙信が下野を去ったタイミングを見計らって反旗を翻します。
これに対して謙信も唐沢山城を攻め、何度も行われた唐沢山城を巡る戦いの中で最大の激戦が勃発しました。
謙信の激しい攻めに対して昌綱は徹底抗戦しますが、後北条氏の援軍もないまま戦うのは分が悪く、次第に劣勢になっていきます。
そして、佐竹義昭と宇都宮広綱の説得により降伏。幸いにも2人の助命嘆願により命を取られずに済みました。
しかし、同年10月に第五次川中島の戦いが起こった隙をついて、氏康が唐沢山城に侵攻すると、またも謙信から離反します。
この裏切りによって再度謙信の侵攻を受け、昌綱は人質を差し出して降伏しました。