上杉謙信の真のライバル!?離反を繰り返し、なんと8度も謙信と戦った戦国武将・佐野昌綱とは?
武田信玄のライバルと言われた上杉謙信には、もう一人のライバルと言っても差し支えない武将がいました。
その人物は佐野昌綱(さの-まさつな)ですが、初めて聞く方もいるのではないでしょうか。
今回は昌綱についてご紹介し、謙信と長きに渡って続いた戦いも紐解いていきます。
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古河公方から後北条氏に従う
享禄2年(1529)、佐野昌綱は佐野泰綱の次男として誕生します。
また、佐野氏は藤原秀郷流足利氏の庶流で、平安末期の武士・足利有綱の子である基綱が下野国(現在の栃木県)安蘇郡佐野庄に土着したことが始まりです。
鎌倉時代では鎌倉幕府の御家人として、室町時代では古河公方に味方して勢力を維持してきました。
昌綱も古河公方に従いますが、天文15年(1546)の河越夜戦の大敗で衰退したことで、勢いのあった北条氏康に従いました。
一度謙信と共に戦った
しかしながら、昌綱は後北条氏を裏切り上杉謙信に味方したことで永禄3年(1560)2月に居城・唐沢山城が侵攻を受けます。
北条氏政率いる3万の大軍に対し、防衛戦を展開しつつ謙信自らの援軍が来たことで撃退に成功しました。
この時、謙信は唐沢山城を早急に救援すべく、鎧を着用せずに愛用の十文字槍を携え、少数の兵を率いて敵中に突撃。謙信の様子を見た後北条勢が、何かの策略かと疑ったことで無傷で入城したことを見て、夜叉羅刹とは謙信のことだと恐れたそうです。
この戦いは、昌綱と謙信が手を組んで戦った唯一の戦いであり、謙信の武勇を示すエピソードが残っておりますが、創作の可能性が指摘されています。