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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 【関ヶ原の合戦】隆慶一郎『影武者徳川家康』に登場した門奈助左衛門は実在した!【どうする家康 外伝】

【関ヶ原の合戦】隆慶一郎『影武者徳川家康』に登場した門奈助左衛門は実在した!【どうする家康 外伝】

一方のプライベートでは、妻には松平信一(伊豆守)の娘を迎え、5人の息子をさずかりました(母親はいずれも不明、側室がいた可能性も)。

長男・門奈宗家(半兵衛)

次男・門奈宗忠(半十郎)

三男・門奈勝重(伝八郎)

四男・門奈政勝(惣兵衛)

五男・門奈重冬(新五右衛門)

なお、長男の宗家は慶長11年(1606年)に伏見で亡くなっており、家督は宗家の長男である門奈宗次(三郎右衛門)が継ぎます。

豊臣家が滅亡した元和元年(1615年)には伏見奉行となり、諸々を取り仕切るようになりました。

そして寛永11年(1634年)9月10日、80歳で世を去った宗勝。法名は浄室と伝わりますが、一説には享年83歳、法名を覚融というそうです。どっちが正しいのでしょうか。

マメ知識・門奈助左衛門の家紋について

門奈宗勝の家紋は「丸に一本鷹羽(いっぽんたかのは)」と「割橘(わりたちばな)」が使われています。一方で本家(兄・直友の家系)では「丸に左鷹羽打違」「丸に橘樹」が使われました。

これは宗勝が分家を興す際、本家に遠慮して家紋を変えたのです。でも同じ一族である名残として、鷹羽を二つから一つ、橘を割るアレンジを加えたのでした。

こうした本家と分家の家紋アレンジは各家で見られるため、探してみると楽しいですよ!

終わりに

●宗勝

初重里 助左衛門 門奈太郎兵衛直宗が二男、母は某氏。

東照宮に仕へたてまつり、関原御陣のとき供奉し、のち大番の組頭となり、元和元年より伏見奉行をつとむ。寛永十一年九月十日死す。年八十。法名浄室。今の呈譜八十三法名覚融に作る妻は松平伊豆守信一が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻九百三十 藤原氏(支流)門奈

【門奈助左衛門宗勝・略年表】

弘治元年(1555年) 誕生(1歳)

永禄11年(1568年) 主君・今川氏真が滅亡、父や兄と共に徳川家康に仕える(14歳)

元亀3年(1572年) 兄・門奈直友が三方ヶ原合戦で討死する(18歳)

時期不明 松平信一の娘を妻にめとる

天正6年(1578年) 長男・門奈宗家が誕生する(24歳)

天正12年(1584年) 父・門奈直宗が亡くなる(30歳)

慶長5年(1600年) 関ヶ原の合戦に従軍する(46歳)

時期不明 大番の組頭に抜擢される

慶長11年(1606年) 長男・門奈宗家に先立たれる(52歳)

慶長17年(1612年) 孫の門奈宗次が家康に出仕する(58歳)

元和元年(1615年) 伏見奉行を拝命する(61歳)

時期不明 隠居して、家督を孫の宗次に譲る

寛永11年(1634年) 亡くなる(80歳)

以上、徳川家康の側近として仕えた門奈助左衛門宗勝の生涯をたどってきました。

漫画『影武者徳川家康』だと、まだ若い青年みたいな描き方でしたが、実際には関ヶ原の時点で46歳だったのですね。

調べてみたら、また『影武者徳川家康』を読みたくなってきました。小説と漫画を両方読み比べて、違いを楽しむのもおススメですよ!

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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