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親の仇・石田三成が目の前に…あなたならどうする?鳥居成次(元忠三男)かく語りき【どうする家康】:2ページ目
さぁ、思う存分に怨みを晴らすがよいぞ……久五郎はどんな手を使って治部めをなぶり上げるのか楽しみだ……。
果たして家康がワクワクしていたかはともかく、その数日後。
「何、久五郎が治部を手厚くもてなしていると?」
親の仇をなぶりものにするどころか、手厚くもてなすとは一体いかなる了見であろうか。
家康が訝しんでいた翌日、久五郎が謁見に参上してきました。
「久五郎よ。そなたは石田治部めを手厚くもてなしていると聞いたが、一体いかなる了見か?」
親の仇を前にして(命令だから自分の手では討てないにせよ)、少しでも怨みを晴らすべく何かしらをしたかろうに、もてなすなどと仇に同情するような振る舞いは親不孝ではないか。
もっと治部めをなぶり倒してくれなきゃつまんないじゃないか……なんてことは微塵も思っていない家康は、少し避難がましく問いかけました。
それに対して、久五郎が答えて言うには。
「確かに、こたび父は治部らと戦いました。しかし父はあくまで君命をまっとうしたのであり、また生き死には武門の常なれば、治部個人に怨みはありません」
「ほう」そういう考えもあるのか。家康の気づきを前に、久五郎は続けます。
「むしろ石田治部めは天下の仇とも言うべき大罪人。私(わたくし)の小さな怨みを問うべきではございませぬ。ですから身柄は、より相応の方が預かるべきかと」
「相分かった。治部めの身柄は、本多佐渡(正信)に預けよう」
かくして三成の身柄は本多正信に引き渡され、天下の人々は久五郎の潔い態度を賞賛したということです。
終わりに
……慶長五年九月関原の役に扈従し首級を得たり。御勝利ののち、父が仇なれば其憤りを慰めよとて石田三成をめしあづけらる。成次厚くこれを饗し、衣服をあたへて慇懃を盡しいさゝか恨るの體なし。三成涙を流してその厚意を感ず。次の日御前に出て台慮の辱を拝し、三成父が讐なりといへども、もとより元忠は君がために一命をたてまつりしなれば、敢て三成が所為といふべからず。依てこれに対してわたくしの恨あるべきやうなし。天下の御敵なれば他人にめしあづけられたまはるべきよしを言上せしかば、御感ありて即本多佐渡守正信にめしあづけらる……
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百六十一 平氏(支流)鳥居
以上、関ヶ原合戦に敗れた石田三成を手厚くもてなした鳥居成次のエピソードを紹介してきました。
たとえどれほど憎い相手でも、私怨ではなく天下公益の観点から公正に取り扱う態度は、まさしく主君に対する忠義。さすがは三河武士の鑑・鳥居元忠の息子ですね。
その後も大坂の陣で28の首級を上げたり、徳川忠長(秀忠の子、家康の孫)を補佐したりと文武に活躍した鳥居成次。
彼ら武骨な忠義者たちによって家康の天下取りは成し遂げられ、徳川の世は2世紀半の永きにわたり護られたのでした。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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