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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 大坂の陣で壮絶な最期!石川数正の次男・勝千代(石川康勝)がたどった生涯【どうする家康】

大坂の陣で壮絶な最期!石川数正の次男・勝千代(石川康勝)がたどった生涯【どうする家康】:2ページ目

豊臣政権での活躍

天正18年(1590年)には秀吉が天下を統一。石川父子の読みは正しかったと言えるでしょうか。

文禄元年(1592年)に秀吉が朝鮮遠征(文禄の役)の兵を起こすと、前線基地である名護屋城へ移りました。

翌文禄2年(1593年)に父が亡くなると、その遺領10万石のうち信濃国安曇郡1万5千石を受け継ぎます。

やがて朝鮮の戦況が思わしくなかったためか、康勝も兵を率いて渡海。京城(現代のソウル)へ遠征しました。

文禄3年(1594年)に帰還した康勝は、秀吉が隠居所として築城していた伏見城(指月伏見城)の普請にとりかかります。

果たして慶長元年(1596年)に完成した伏見城ですが、その直後に慶長大地震が発生。あえなく崩壊してしまいました。せっかく築き上げたのに、残念でしたね。

秀吉の死により家康へ帰参するも……

さて、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権内で派閥抗争が勃発。このタイミングで康勝は家康に帰順し、石田三成(いしだ みつなり)らと争います。

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康の嫡男・徳川秀忠(ひでただ)率いる別働隊に参加。

中山道を進撃したものの、信州上田城で真田昌幸(さなだ まさゆき)に足止めを食らい、とうとう決戦には間に合いませんでした。

家康によって兄ともども所領を安堵されて康勝ですが、秀吉の遺児である豊臣秀頼(ひでより)とも親しくしていたようです。

慶長18年(1613年)8月には豊国大明神(秀吉を祀る神社)へ秀頼の代参を任されており、よほどの信頼関係があったことをうかがわせます。

しかしそれが原因か、同年10月に兄が所領隠し(≒脱税)容疑で改易処分にされると、康勝も連帯責任で改易されてしまいました。

一説には大久保長安(おおくぼ ちょうあん/ながやす)事件の連座とも言われています。

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