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甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】

甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】

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2023/07/12

甲斐武田家の一時断絶と再興

以後、甲斐守護職を歴任していた甲斐武田家は信満の死と信満の嫡男・信重の出家により、一時的に断絶します。その後、有直は甲斐守護職就任を望みましたが、幕府はこれを許しませんでした。

幕府としては信満の嫡男・信重を還俗させ、甲斐守護職を就任させるつもりでいました

有直や反対勢力によって難航しますが、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかが-よしのり)の頃には鎌倉府や逸見家が衰退していました

それが後押しし、幕府の介入もありつつ信重が甲斐守護職を就任同時に甲斐武田家も再興しました

その後も内乱続きだった甲斐武田家

その後の甲斐武田家は信重が台頭しましたが、守護代の跡部家が専横している状態でした。その跡部家は信重の孫にあたる武田信昌が排斥するも、次は後継者争いで内乱状態に陥ります。

甲斐国を二分した内乱は、信昌の孫で信玄の父にあたる武田信虎が国内を統一する永正5年(1508)まで続きました

甲斐武田家は信満死後のいざこざを経て、約100年かけて甲斐国の戦国大名として化けていくのでした

最後に

甲斐武田家は信玄の時に絶頂期を迎えますが、この礎を築いたのは信虎を含んだ先祖たちが培ったのは言うまでもありません。勝頼の代で滅亡してしまうのですが、その地が天目山だったのは何か因縁深いものがあったと考えてしまいますね。

もしかしたら勝頼は、再興できた信満を倣って天目山を意図して選んだのかもしれません。

 

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