甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】
『どうする家康』26話「ぶらり富士遊覧」で滅亡の運命を辿った甲斐武田家。
武田勝頼の天目山の最後にて滅亡を迎えましたが、今回の武田家滅亡は、実は2度目だったことはご存知でしょうか。また、1度目の滅亡も天目山で迎えていました。
そこで今回は、因縁の地に当たる天目山で迎えた1度目の武田家滅亡についてご紹介します。
きっかけは上杉禅秀の乱
最初の甲斐武田家滅亡のきっかけとなったのは、応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱の時です。当時の当主は武田信満(たけだ-のぶみつ)。甲斐国と安芸国の守護職を任された守護大名でした。
信満は娘が禅秀に嫁いでいた縁で上杉禅秀の乱では上杉側に味方し、当時の鎌倉公方の足利持氏(あしかが-もちうじ)や関東管領の上杉憲基(うえすぎ-のりもと)と対峙します。乱自体は順調に事が運び、上杉側が関東統治機関の鎌倉府を制圧するに至りました。
信満の死
しかし、室町幕府が介入したことで戦況が悪化。翌年の応永24年(1417)に禅秀が自害し、乱が収束し始めます。一方、信満は討伐軍の攻撃により、自国の甲斐国まで撤退しました。
しかし、武田氏庶流の逸見有直が持氏と次期甲斐守護職就任を条件にした密約を快諾。
これにより、有直に裏切られた信満は天目山に追い詰められた末に山中の木賊村(とくさむら)で自害しました。
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