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追い詰められていたのは、むしろ信玄の方だった?
まぁ地の利(苦笑)はさておき、もう一つ家康が出撃を決断したのは、武田軍の装備があまりに貧弱だった可能性もありそうです。
先ほどの二俣城を攻略するのに一ヶ月ほども要し、また水の手を断つという実に回りくどい戦法をとっている武田軍。これは鉄砲が(厳密には撃つための弾薬が)欠乏していたことに由来します。
この時代の攻城戦は、土塁や石垣をよじ登る兵を後方から援護射撃するのがセオリーとなりつつありました。
援護射撃は弓でもいいのですが、やはり飛距離や威力から言って鉄砲にはかなわず(城兵が鉄砲を持っていれば尚更)、武田軍を含め各大名家では火縄銃の調達に必死でした。
しかし信長によって陸海の交易ルートを押さえられてしまうと、弾薬が圧倒的に不足します。火縄銃じたいは製造できても、弾薬がなければ無意味です。
特に武田家の支配していた甲信地方は領地がやせており、豊かな海を求めて戦う軍資金を調達するため、領民に異例の重税を課していました。
甲州法度之次第に「逃げ出した領民はどこまでも追い駆けて税を取り立てろ(要約)」とある通り、よほど追い詰められていたことが分かります。
果たして駿河を手に入れたはいいものの、交易をしようにも制海権はすでに信長が掌握。手詰まり感は否めませんでした。
劇中そして通説では「自分の死期を悟って上洛を決意した」と言われますが、実は経済的に追い詰められていたことが挙兵の動機だったのではないでしょうか。
当時、京都では足利義昭(演:古田新太)が信玄を含む諸大名に信長討伐を命じており(いわゆる信長包囲網)、信玄はそれに乗じて織田・徳川の討伐に乗り出したものと考えられます。
ちなみに武田の軍勢は三万騎と言われますが、これは武田領で動員できるほぼ最大兵力(※)。もしこれが本当であれば、信玄はほとんど所領をカラにしていたことになります。
(※)甲斐+信濃+駿河+αで約120万石。目安として40万石で兵1万を動員できる計算。
「時は待ってくれんぞ……」
あえて悠然と構えることで家康の焦りを誘った信玄ですが、実は信玄の方が追い詰められており、家康はそのチキンレースに負けてしまったわけです。
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