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「どうする家康」弱き主君は害悪、滅ぶが民のため。武田に従う?第16回放送「信玄を怒らせるな」振り返り:4ページ目
海がない甲斐国の貧しさ
劇中、少しだけ信玄がぼやいていましたが、ご存じの通り甲斐国(山梨県)には海がありません。だから交易は陸路のみに依存しており、周辺勢力との対立が死活問題に直結していました。
加えて甲斐国は土地がやせており、国内で米の収穫があまり見込めないため、独自の粉食文化が発展したことが大河ツアーズでも触れられています。
信玄は戦国最強と謳われた精鋭たちを率いる裏で増税を繰り返しており、その凄まじさは信玄を讃える『甲陽軍鑑』でさえ過酷な徴税ぶりを伝えるほどです。
(例えば納税できず逃げ出した者をどこまでも追いかけたり、犯罪者の連帯責任で村人全員から罰金をとったりなど、なりふり構わず銭を掻き集めています)
かつて信玄が追放した父・武田信虎(のぶとら)も国内の貧しさから脱却するために対外戦争を繰り返しており、信玄もまた父の轍を踏まざるを得なかったようです。
貧しいから戦争をし、戦費が足りないから領民に重税を課して掻き集める悪循環に陥っていました。
今川を何とか海のある駿河国を手に入れ、ようやく港を通じて交易しようと意気込んだ信玄。しかし西国と交易をするにはどうしても織田の領海を通らねばならず、手詰まり感は払拭できません。
そして勝頼の代になると、いよいよ国内経済が破綻。天正10年(1582年)に織田軍が攻め込んだ折など、領民たちはこぞって歓迎したと言います。
貧しさから戦争を繰り返し、勝っている内は辛うじて保てていた勢力が、ひとたび劣勢になれば崩壊しかねない危うさが常につきまとった武田家。
逆に言えば、信玄は「そんな中でもよく領国を治め、最強軍団を率いていた」という評価もできるでしょう。
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