悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?:2ページ目
極めてまともな活躍ぶり
豊臣秀次は1568年、秀吉の姉・ともの長男として生まれました。父は木下弥助(後の三好吉房)です。
数少ない秀吉の縁者だった秀次は、幼少期は人質として利用され、最初は浅井家家臣・宮部継潤の養子として、次に阿波の三好康長の養子として送り込まれています。
そんな秀次も1582年に山崎の戦いに出陣して初陣を飾ったのを皮切りに、1583年の賤ヶ岳の戦いや1584年の小牧・長久手の戦いに出陣します。
『賤ヶ嶽大合戦の図』賤ヶ岳の戦いの錦絵(Wikipediaより)
特に小牧・長久手の戦いでは「中入り」のため三河国への別働隊の総大将となりますが、逆に徳川勢の奇襲を受けて惨敗。舅である池田恒興や森長可らを失い命からがら敗走したため、秀吉から激しく叱責されています。
この時の印象が強く、秀次は戦に対しては無能だと思われがちですが、大きな負け戦はこの時だけで、その後の紀伊雑賀攻めでは羽柴秀長と共に副将をつとめ千石堀城の戦いで城を落としています。また、四国攻めでも副将として3万の軍勢を率いて戦功を挙げています。
これらの活躍が評価されて近江国八幡山城43万石の城主となった秀次は、内政面で手腕を発揮しました。
まず、本能寺の変で焼け落ちた安土から商人を呼び寄せ、碁盤目状の街路を作り、現在の近江八幡市の原型となる城下町を整備しました。
また、領内で農民の間に水争いがおこった際に庄屋が秀次に裁定を訴えたところ、秀次は双方が納得する裁決を下して感謝されたという逸話もあります。
現に、近江八幡市内には「水争い裁きの像」が建てられ、秀次は今でも地元では高い評価を得ているのです。
1590年の小田原征伐では山中城攻めの大将となり、徳川家康らと共に半日で陥落させています。
戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国を加増され、100万石を超える大大名となります。
秀吉には子供がいなかったため後継者として注目されるようになり、将来を嘱望される存在となっていました。
そして、秀吉の嫡男・鶴松が夭折し大和大納言秀長が没すると、秀次は秀吉の養子となり関白の職を譲られます。
唐入り(朝鮮出兵)に専念する秀吉の代わりに、まだ20代半ばの若さでありながら、聚楽第で秀吉の決めた法度などに準じて政務を執り、関白の名に恥じない働きぶりを見せています。
しかし、1593年に淀殿が豊臣秀頼を産むと雲行きが怪しくなります。