悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?
「殺生関白」というレッテル
不遇の死を遂げたことで有名な豊臣秀次。
彼には「殺生関白」という不名誉なレッテルが貼られていますが、これは本当なのでしょうか。
そのレッテルの由来と信憑性を探ります。
豊臣秀次が「殺生関白」と呼ばれている元となっているのは、『信長公記』の著者である太田牛一が記述した「太閤さま軍記のうち」にある内容です。
「殺生関白」という悪名も、秀次切腹事件の経緯も、この記述がもとになって後世に伝わっていきました。
その悪行としては、次のような話が伝わっています。
正親町上皇が崩御して喪に服している時に、鶴を食べたり鹿狩りを行ったりしていたため、不道徳的だとして京の人たちが狂歌を街角に張り出した。
女人禁制の比叡山に女房らを連れていき夜まで遊宴し、殺生禁止の聖域で狩りをおこない、山の衆が抗議しても聞き入れなかった。
北野天神で杖をついた盲人に遭遇した際、酒を飲ませてやると騙して連れて行き右腕を斬り落とした。盲人が「これが悪名高い殺生関白の秀次か」と悟って恨み言を口にすると、滅多斬りにした。
他にも、鉄砲の稽古だと言って農民を撃ち殺しただの、弓の稽古だと言って往来の人を射っただのと、これでもかというほどの悪行三昧です。
しかし、これらの話は同時代の他の資料には載っておらず、これらは誇張・創作されたものではないかとも言われています。
では、実際の秀次はどのような人物だったのでしょうか?