悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?:3ページ目
凄惨な処刑
秀頼を溺愛した秀吉は、秀次に関白の座を譲った事を後悔し、次第に疎んじるようになっていきます。
そして1595年、秀次は「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てているという噂がある」と謀反の疑いをかけられてしまいます。
謀反する気など全くなかった秀次は、すぐに秀吉に弁明し誓紙を提出した上で要請に応じて伏見城に参上しますが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、高野山へ行き謹慎するように命じられてしまいます。
わずかな供を連れ高野山へ入り出家した秀次、しかし、そこにもたらされたのは「死を賜る」という命令でした。
秀次は切腹、享年28。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。秀次の切腹後、秀吉による粛清は彼の妻子と家臣にまで及び、三条河原で凄惨な処刑が行われました。
遺体は秀次の首と共に一ヶ所に埋葬され、そこに建てられた塚は「畜生塚」とされました。
また、秀次に近しい大名達も改易処分となり、秀次が政務を行っていた豪華な聚楽第や、所領の近江八幡城も全て破却されてしまいました。
この時の秀吉のふるまいは常軌を逸した残忍極まりないものでした。これといった罪のない秀次の処罰を正当化するために、「殺生関白」秀次像が創られたのではないかという見方もあります。