【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その2】
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で非業の最期を迎えてもなお人気を博している上総介広常(演:佐藤浩市)。「ドラマだけではなく、実際はどのような人物だったのか知りたい!」という人も多く、そんな上総介広常の本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫ってみました。
「その1」では、頼朝軍700人、平家の代表・大庭景親軍3,000人に対し、上総介広常が13.000人もの兵を集め頼朝のもとに参陣。これにより頼朝が石橋山敗戦の再起とさらなる飛躍に向け大きな一歩を踏み出した……ところまで、ご紹介しました。
【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その1】
その2では、「上総介と頼朝の考えの違い」から始まった頼朝による上総介誅殺の真相をご紹介しましょう。
上総介と頼朝の考えの違いとは
上総介広常に流れる独立心という血脈
上総介広常が頼朝を助けた最大の理由は、関東に坂東武士の独立国をつくることだったと思われます。しかし、頼朝の考えは全く違いました。あくまでも京都の朝廷の権威を後ろ盾にした権力の確立にあったのです。
頼朝は平家追討において木曽義仲に先を越された時、先手を打って後白河法皇に工作を行います。それによって得たものが『寿永二年十月宣旨』と呼ばれる宣旨で、これにより頼朝は一介の流人を脱し、実質上の東国支配者となりました。
そもそも坂東武士の多くは、桓武平氏の血筋を引いています。かれらの先祖の平将門や平忠常は、京都の朝廷とは一線を画し、東国は独立独歩でやっていこうという考えで乱を起こしたのです。
上総介は前述した通り、平忠常の直系子孫となります。ですから先祖が夢見て果たせなかった東国独立という夢を頼朝にかけていたとしても何ら不思議はないのです。
東国は坂東武士の支配する場所
上総介がかつて主君と仰いだ頼朝の父義朝とともに保元・平治の乱を戦ったうえで、上総介はある教訓を得ていたのでないでしょう。それは、武士は中央の権力者である院や高級貴族のために戦うコマに過ぎないというものだったと思われます。
平治の乱で勝利した平清盛と平氏も、結局は高級貴族化していきます。そして、清盛は上総国に自分の近臣を国司として送りつけました。清盛の権威を笠に着る国司と対立した広常は清盛に勘当されてしまいます。中央政権の考え一つで、上総介一族が代々懸命に守ってきた上総国の支配に大きな危機が訪れたのです。
上総介の頼朝軍への参陣は、一つは中央勢力である平家政権との決別であり、もう一つは頼朝という旗頭を担いで、坂東武士が東国を支配するためのものであったのです。