【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その2】:2ページ目
頼朝が上総介を誅殺した真相
成立当時の鎌倉幕府は朝廷の下での地方政権だった
1192(建久3)年、頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府という武家政権が成立します。しかし、幕府の支配は限定的で、あくまで朝廷権力を前提した地方政権でした。
鎌倉幕府が全国政権に発展するには、1221(承久3)年の承久の乱で朝廷権力を打倒するまで待たなければなりません。そして注目すべきは、承久の乱での勝者は、頼朝の源氏一族が滅亡した後の幕政指導者である北条政子・義時弟妹であり、坂東武士であったのです。
ここに頼朝が上総介を誅殺した真相が隠されています。要するに頼朝は平家に対抗して東国支配をするにあたり、なによりも朝廷(後白河法皇)の後ろ盾を必要としていたのです。
ところが頼朝軍を支えている最大勢力の上総介にはそのような考えは全くありません。朝廷に気を使う頼朝に対して、朝廷など無視して実力で東国経営を行えばよいという主張を行ったのでしょう。
こうした考えの違いから、頼朝と上総介の衝突が起きたと考えられます。自分の兵を持っていない頼朝は上総介に面と向かって強い命令を下せません。そうした状況が周りからは、上総介の態度が横暴に見えたのでしょう。二人の関係は、そんな悪循環に陥っていたと推測されるのです。
『吾妻鏡』の1181(治承5)年6月19日の条に「広常は普段から無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して下馬の礼をとらなかった」と記されている上総介像は事実であったと思われます。
頼朝が語った上総介広常誅殺の真相
1183(寿永2)年12月、上総介は頼朝の命を受けた梶原景時に大蔵御所内で討たれました。
上総介広常誅殺の経緯について、源頼朝は7年後に上洛し、後白河法皇に次のように語ったと『愚管抄』に記されています。
「私が上総介を殺したのは、上総介が朝廷をないがしろにする言動によります。上総介は常々私に対し、なぜあなたはそこまで朝廷に気を使われるのか。それは見苦しいばかりだ。坂東武士に対し、朝廷であれ誰であれ、命令などできようものか。」
この言葉こそ、頼朝の上総介広常誅殺の真相でした。上総介の存在を許せば、頼朝が朝廷から叛乱軍とみなされる可能性があったのです。だから、頼朝は早々にその芽を摘んだのでした。